( 香水工場の )
香る生活
実存しない人々による商品レビュー?
ちょっとややこしい・・ (2021/09/05)
( AIが制作した架空の顔写真、フェイクの顔写真、ニセ人間 = Fake people や 合成人間 = Synthetic human と呼ばれる - Forbes )
どんな企業も、通販やっているところは、お客様による商品レビューは、重要なコンテンツ。
売る側の企業が、あれこれと言ったところで、どっちにしたって信用度は低い。
その点、顧客レビューは、中立的な意見(のはず)、信用されやすい。
Amazonでも「カスタマーレビュー」は人気のコンテンツだそうです。
だから、通販ではお客様レビューを掲載するが、顔写真入りのレビューだと、信用度はさらにアップする。
その顔写真が無料で配布されているAI製のフェイク顔写真だとしたら?・・そんな事件を読売新聞が伝えていたので興味深く読んだ →
( 架空の顔で「お客様の声」「大満足」…AIで生成、90サイトで宣伝に悪用 - 読売新聞 )
海外では数百万点のフェイク顔写真を無料配布しているサイトもある。
架空人物はSNSなどで活動をはじめており、中にはインスタやTwitterに100万人以上のフォロワーを獲得している"人"もいる。
彼らの会話は、日々人間らしくなっており、容姿だけでなく、会話でも本物かどうか、区別つかない時代に突入気味。
出会い系サイトで、熱を入れ込んだ相手が、写真はフェイク、プロフィールもフェイク、楽しい会話は、実はボット返信 (自動応答のAIプログラム) だったという笑い話は、今ではまだ笑い話で済んでも、近い将来、ちょっと深刻な状態に陥る予感。
ここまで書いてくると、武蔵野ワークスのレビューはフェイクじゃないだろうね、と疑われそうなので、アナウンスします。
誓ってフェイクは入れておりません。
人による人のレビューです。
え、では、このブログは大丈夫かって?
・・実は、このブログは、AI様が、シコシコ書いております、なんていう時代が来ないとは言い切れない。
(2021-09-05)
( AIが制作した架空の顔写真、フェイクの顔写真、ニセ人間 = Fake people や 合成人間 = Synthetic human と呼ばれる - Forbes )
顔出し商品レビュー事件
どんな企業も、通販やっているところは、お客様による商品レビューは、重要なコンテンツ。
売る側の企業が、あれこれと言ったところで、どっちにしたって信用度は低い。
その点、顧客レビューは、中立的な意見(のはず)、信用されやすい。
Amazonでも「カスタマーレビュー」は人気のコンテンツだそうです。
だから、通販ではお客様レビューを掲載するが、顔写真入りのレビューだと、信用度はさらにアップする。
その顔写真が無料で配布されているAI製のフェイク顔写真だとしたら?・・そんな事件を読売新聞が伝えていたので興味深く読んだ →
( 架空の顔で「お客様の声」「大満足」…AIで生成、90サイトで宣伝に悪用 - 読売新聞 )
海外では数百万点のフェイク顔写真を無料配布しているサイトもある。
架空人物がスターになる日
架空人物はSNSなどで活動をはじめており、中にはインスタやTwitterに100万人以上のフォロワーを獲得している"人"もいる。
彼らの会話は、日々人間らしくなっており、容姿だけでなく、会話でも本物かどうか、区別つかない時代に突入気味。
出会い系サイトで、熱を入れ込んだ相手が、写真はフェイク、プロフィールもフェイク、楽しい会話は、実はボット返信 (自動応答のAIプログラム) だったという笑い話は、今ではまだ笑い話で済んでも、近い将来、ちょっと深刻な状態に陥る予感。
当社のVOICE(お客様レビュー)は大丈夫か?
ここまで書いてくると、武蔵野ワークスのレビューはフェイクじゃないだろうね、と疑われそうなので、アナウンスします。
誓ってフェイクは入れておりません。
人による人のレビューです。
え、では、このブログは大丈夫かって?
・・実は、このブログは、AI様が、シコシコ書いております、なんていう時代が来ないとは言い切れない。
(2021-09-05)
( 香水工場の )
香る生活
武蔵野を語るシリーズ・・東山道武蔵路
日本の古代ハイウエイが美しすぎる話・・ (2021/09/04)
( 国府 = 現・府中市まであと数キロ、旅人はこの丘から見える景色に「もうすぐ」という気持ちになったことでしょう - 国分寺市立歴史公開 )
東山道武蔵路(とうさんどう・むさしみち)とは、7世紀の飛鳥時代の頃に畿内から全国へ敷設された官道の一つ。
東山道は、畿内より内陸部を通り、関東・東北に至る大動脈でしたが、武蔵路は東山道を上野国(こうずけのくに = 現・群馬県)で、武蔵国府(現・東京都府中市)に向かってほぼ直線で南下する東山道の支路です。
( 東山道武蔵路の遺跡。一番上のイラストは、この場所から国府方面を望んだときの空想図。現在は建物が建ち並び、眺望は望めない。この遺跡は当社から数分のところにある )
東山道武蔵路の特徴は、道路幅の広さと直進性。しかも左右の道路端には側溝が設置されています。
側溝は通常、道路からの排水を目的に設置されますが、東山道武蔵路の側溝は、深さに統一性がなく、排水が目的ではないという説が近年有力ですが、ボクは排水設備と信じたい。
日本の道路には側溝の発想が薄く、明治時代になるまであまり見かけない舗装形態でした。
道路幅は12メートル前後。現在でも主要幹線道路になりえる広さ。通行人はまばら、大きな通行物といえば、馬か牛車の時代にこれだけの幅を確保する意図は不明です。
( 東山道武蔵路の遺跡、JR西国分寺駅から数分。この道幅どうよ。この時代になぜ、これだけの道路が必要だったのか? 後世にできる鎌倉街道などはもっと狭く直進性が乏しい道路へと退化する )
( 東山道武蔵路の遺跡に掲げられている看板。所沢から府中までの約15kmの地図ですが、東山道武蔵路の直進性がわかる - 国分寺市立歴史公開 )
ハイウエイの原型とされるローマ帝国アッピア街道は、ときに数十万に及ぶローマ軍を最短最速で紛争地に派遣するための軍用道路でした。
それでも道路幅6メートル、左右の歩道2メートルを足しても10メートル程度の道路幅。それを考えると、東山道武蔵路の12メートルは驚異的です。
道路の直進性は、兵・物資・人が最短最速で移動することを可能にしますが、山あり谷あり、沼地・湿地ありで、簡単な話ではありません。
実際、この後、日本で造られた道路は曲がりくねった狭い道路になっていきます。
ローマ帝国は帝国の隆盛とともに、ローマを中心に地中海全土、北はライン川に至るまでのヨーロッパ全土へとローマ式街道を拡大させました。
直進性、排水のための側溝、突起物がない完全に平らな路面(石畳)、層に別けて違う舗装材で造成された舗装構造など、その設計思想は現代ハイウエイの原型です。
さらに驚くべきことは上下差、つまり「坂」を造らないという設計思想があったことです。
ローマ街道は、行く手に山があれば、削るかトンネルを掘り、谷があれば、石橋の陸橋を造るなど、坂で人々を疲れさせない工夫も施されました。
川があれば橋を架けますが、めがね橋、つまりアーチ状の橋ではなく、道路と同じ高さのまま川を渡れる橋が好まれました。
今で言えば、バリアフリーですね。
紀元前に、社会全体でバリアフリーを実現しようとした設計思想に、ローマ帝国の偉大な先進性の片鱗を垣間見る思いです。
( ローマの橋の例: 二千年の風雨と使用に耐える頑強さと美しさを備える古代橋の傑作「Alcántara Bridge」 道路との落差がまったくない - Wikipedia )
紀元前312年に敷設が始まったアッピア街道は、ローマ軍の通行だけでなく人々の往来も盛んにしました。
オリーブオイル、ワイン、小麦などの物資が頻繁に運搬され経済の発展に貢献しました。
そして、ローマ市民に旅行ブームを起こしたと言われています。
紀元前、アッピア街道沿いにはすでに観光案内所や宿屋が整備されていたことは驚きです。
( ローマ市街で撮影したアッピア街道。もともとは石畳だった。旧ローマ街道は、拡張されたり、現代の舗装に変化しているものが多いが、市街地でも、ところどころいまだ使用されている )
( 紀元前に創られたアッピア街道。「街道の女王」と呼ばれる。現代高速道路のモデルとなった道路。ローマからカプアまでのルートが黒塗りされているが、テッラチナまでの100kmはほぼ直線。途中山地や湿地もあるが、ほぼ直線で通された - ResearchGate )
東山道武蔵路も山があれば削り、沼地や平地があれば盛り土がなされたことが判明している。なるべく上下差をなくす設計思想だったと思われますが、その徹底性はローマに及びません。
しかし、東山道武蔵路の道路幅と直進性は、当時、まぎれもなく世界のトップハイウエイだったと思われます。
東山道武蔵路は、都からの軍隊や使節団や役人の往来だけでなく、人々に利用され、人・物資・情報が行き交う動脈となりました。
武蔵野は、当時、草原と森林が入り交じる草深いエリアだった考えられますが、そんな自然の中で、早い時代から文明と自然が交差するところが、武蔵野の一貫した特徴になっています。
武蔵野の美しさは、自然と文明の交差点にあるのです。
・・今日はこれくらいで。
(5) 武蔵野の湧水(湧き水)
(4) 武蔵野を横断する玉川上水
(3) 古代ハイウエイ東山道武蔵路
(2) 国分寺と武蔵国分寺
(1) 武蔵野を語るシリーズ
(2021-09-04)
( 国府 = 現・府中市まであと数キロ、旅人はこの丘から見える景色に「もうすぐ」という気持ちになったことでしょう - 国分寺市立歴史公開 )
日本の古代ハイウエイ
東山道武蔵路(とうさんどう・むさしみち)とは、7世紀の飛鳥時代の頃に畿内から全国へ敷設された官道の一つ。
東山道は、畿内より内陸部を通り、関東・東北に至る大動脈でしたが、武蔵路は東山道を上野国(こうずけのくに = 現・群馬県)で、武蔵国府(現・東京都府中市)に向かってほぼ直線で南下する東山道の支路です。
( 東山道武蔵路の遺跡。一番上のイラストは、この場所から国府方面を望んだときの空想図。現在は建物が建ち並び、眺望は望めない。この遺跡は当社から数分のところにある )
驚くべき道路幅と圧倒的な直進性
東山道武蔵路の特徴は、道路幅の広さと直進性。しかも左右の道路端には側溝が設置されています。
側溝は通常、道路からの排水を目的に設置されますが、東山道武蔵路の側溝は、深さに統一性がなく、排水が目的ではないという説が近年有力ですが、ボクは排水設備と信じたい。
日本の道路には側溝の発想が薄く、明治時代になるまであまり見かけない舗装形態でした。
道路幅は12メートル前後。現在でも主要幹線道路になりえる広さ。通行人はまばら、大きな通行物といえば、馬か牛車の時代にこれだけの幅を確保する意図は不明です。
( 東山道武蔵路の遺跡、JR西国分寺駅から数分。この道幅どうよ。この時代になぜ、これだけの道路が必要だったのか? 後世にできる鎌倉街道などはもっと狭く直進性が乏しい道路へと退化する )
( 東山道武蔵路の遺跡に掲げられている看板。所沢から府中までの約15kmの地図ですが、東山道武蔵路の直進性がわかる - 国分寺市立歴史公開 )
ハイウエイの原型とされるローマ帝国アッピア街道は、ときに数十万に及ぶローマ軍を最短最速で紛争地に派遣するための軍用道路でした。
それでも道路幅6メートル、左右の歩道2メートルを足しても10メートル程度の道路幅。それを考えると、東山道武蔵路の12メートルは驚異的です。
道路の直進性は、兵・物資・人が最短最速で移動することを可能にしますが、山あり谷あり、沼地・湿地ありで、簡単な話ではありません。
実際、この後、日本で造られた道路は曲がりくねった狭い道路になっていきます。
ローマ街道の先進性
ローマ帝国は帝国の隆盛とともに、ローマを中心に地中海全土、北はライン川に至るまでのヨーロッパ全土へとローマ式街道を拡大させました。
直進性、排水のための側溝、突起物がない完全に平らな路面(石畳)、層に別けて違う舗装材で造成された舗装構造など、その設計思想は現代ハイウエイの原型です。
さらに驚くべきことは上下差、つまり「坂」を造らないという設計思想があったことです。
ローマ街道は、行く手に山があれば、削るかトンネルを掘り、谷があれば、石橋の陸橋を造るなど、坂で人々を疲れさせない工夫も施されました。
川があれば橋を架けますが、めがね橋、つまりアーチ状の橋ではなく、道路と同じ高さのまま川を渡れる橋が好まれました。
今で言えば、バリアフリーですね。
紀元前に、社会全体でバリアフリーを実現しようとした設計思想に、ローマ帝国の偉大な先進性の片鱗を垣間見る思いです。
( ローマの橋の例: 二千年の風雨と使用に耐える頑強さと美しさを備える古代橋の傑作「Alcántara Bridge」 道路との落差がまったくない - Wikipedia )
紀元前312年に敷設が始まったアッピア街道は、ローマ軍の通行だけでなく人々の往来も盛んにしました。
オリーブオイル、ワイン、小麦などの物資が頻繁に運搬され経済の発展に貢献しました。
そして、ローマ市民に旅行ブームを起こしたと言われています。
紀元前、アッピア街道沿いにはすでに観光案内所や宿屋が整備されていたことは驚きです。
( ローマ市街で撮影したアッピア街道。もともとは石畳だった。旧ローマ街道は、拡張されたり、現代の舗装に変化しているものが多いが、市街地でも、ところどころいまだ使用されている )
( 紀元前に創られたアッピア街道。「街道の女王」と呼ばれる。現代高速道路のモデルとなった道路。ローマからカプアまでのルートが黒塗りされているが、テッラチナまでの100kmはほぼ直線。途中山地や湿地もあるが、ほぼ直線で通された - ResearchGate )
東山道武蔵路とローマ街道の共通性
東山道武蔵路も山があれば削り、沼地や平地があれば盛り土がなされたことが判明している。なるべく上下差をなくす設計思想だったと思われますが、その徹底性はローマに及びません。
しかし、東山道武蔵路の道路幅と直進性は、当時、まぎれもなく世界のトップハイウエイだったと思われます。
草原と森林の武蔵野を縦断する文明
東山道武蔵路は、都からの軍隊や使節団や役人の往来だけでなく、人々に利用され、人・物資・情報が行き交う動脈となりました。
武蔵野は、当時、草原と森林が入り交じる草深いエリアだった考えられますが、そんな自然の中で、早い時代から文明と自然が交差するところが、武蔵野の一貫した特徴になっています。
武蔵野の美しさは、自然と文明の交差点にあるのです。
・・今日はこれくらいで。
(5) 武蔵野の湧水(湧き水)
(4) 武蔵野を横断する玉川上水
(3) 古代ハイウエイ東山道武蔵路
(2) 国分寺と武蔵国分寺
(1) 武蔵野を語るシリーズ
(2021-09-04)
( 香水工場の )
香る生活
武蔵野を語るシリーズ・・国分寺
国家プロジェクトだった国分寺・・ (2021/09/03)
( 武蔵国分寺レイアウト。現代人からすれば普通の巨大なお寺ですが、当時の人々には官庁群的な存在だったでしょう - CG:関東、歴史旅行情報 )
武蔵野の中に存在する国分寺市は、当社の所在地です。
新宿から中央線で30分くらいの東京郊外にあります。当社はこの地で創業しました。
国分寺は、もともと農地や林ばかりの土地でしたが、100年前の関東大震災(1923年)後、被災した人々による移住ブームが起き、そこから中央線沿線の武蔵野は急速に変貌しました。
ボクの叔母は、昭和25年(1950年)頃、大阪から武蔵野をはじめて訪れ、あまりの林の多さに「東京のすぐ郊外なのに、恐ろしく林ばかり」で呆れた、と若い頃の経験を聞かせてくれましたが、彼女には武蔵野の美しさは響かなかったようです。
現在の武蔵野は、さらに宅地化が進み「恐ろしく林ばかり」は、もはや見る影もありません。
ずっと昔の国分寺は、古代都市・府中や鎌倉から関東エリアをつなぐ幹線道路上の政治軍事都市でした。
国分寺の地名は、もともと、奈良時代、聖武天皇によってこの地に国分寺が建立されたことがはじまりです。
武蔵国分寺は、国分寺市内に残る奈良時代の遺跡。
時の天皇・聖武天皇は、仏の力によって五穀豊穣と安定した社会秩序の実現を目指していました。
その壮大な国家プロジェクトの目玉政策が全国の「国分寺」建立構想です。
この地の国分寺は、とくに「武蔵国分寺」(むさし・こくぶんじ)と呼ばれます。
聖武天皇は、全国60カ所以上に国分寺の建立を命じましたが、その中で、武蔵国分寺は、金堂・講堂・七重塔その他からなる大型伽藍で、隣接して尼寺(にじ)も併設されました。
現代で言えば、官公庁が入る大型複合施設のようなものでしょう。
奈良・東大寺の総国分寺とともにとくに規模が大きかったようです。
( 武蔵国分寺跡・・権力を示す巨大建造物が並んでいたが、今は夢の跡 )
1333年、鎌倉幕府打倒を目指して、上野国(こうずけのくに = 現・群馬県)から南下してきた新田義貞とそれを迎え撃つ幕府軍との戦乱(分倍河原の戦)の中で、武蔵国分寺は炎上・崩落しました。
現在、敷石だけが野原の中で昔の面影を残しています。
国分寺周辺は、当時うっそうと茂る武蔵野の森に覆われてた森林地帯と思われます。
しかし、国府が置かれた現在の東京都府中市に隣接していたことで、蝦夷(えぞ)勢力に対する防衛上の理由から武蔵国分寺は重要拠点と見なされたようです。
「国府」とは古代のメトロポリス。飛鳥・奈良・平安時代の律令制体制下における政治軍事拠点でした。
現在、日本の政治経済の中心は東京です。
ですが、当時の東京エリアは、人もまばらな海岸湿地帯であり、関東地方の首都機能は、古代においては「国府」、鎌倉時代から江戸時代以前までは「鎌倉」に多くの機能が集中した。
そのため、国府には古代のハイウェイである「東山道武蔵路」(とうさんどう・むさしみち)が走っていました。
この道路が実に興味深い。
鎌倉は、東日本の多くの重要な街道が交差するハブ的存在で、今で言えばアジアとヨーロッパの各都市を集中的にリンクしているヘルシンキ空港のようなポジションだったと思います。
鎌倉を起点とする重要幹線ルートは、「鎌倉街道」と呼ばれました。
・・今日はこれくらいで。次回は、日本のローマ街道、東山道(とうさんどう)を語りましょう。
(5) 武蔵野の湧水(湧き水)
(4) 武蔵野を横断する玉川上水
(3) 古代ハイウエイ東山道武蔵路
(2) 国分寺と武蔵国分寺
(1) 武蔵野を語るシリーズ
(2021-09-03)
( 武蔵国分寺レイアウト。現代人からすれば普通の巨大なお寺ですが、当時の人々には官庁群的な存在だったでしょう - CG:関東、歴史旅行情報 )
国分寺とは?
武蔵野の中に存在する国分寺市は、当社の所在地です。
新宿から中央線で30分くらいの東京郊外にあります。当社はこの地で創業しました。
国分寺は、もともと農地や林ばかりの土地でしたが、100年前の関東大震災(1923年)後、被災した人々による移住ブームが起き、そこから中央線沿線の武蔵野は急速に変貌しました。
ボクの叔母は、昭和25年(1950年)頃、大阪から武蔵野をはじめて訪れ、あまりの林の多さに「東京のすぐ郊外なのに、恐ろしく林ばかり」で呆れた、と若い頃の経験を聞かせてくれましたが、彼女には武蔵野の美しさは響かなかったようです。
現在の武蔵野は、さらに宅地化が進み「恐ろしく林ばかり」は、もはや見る影もありません。
ずっと昔の国分寺は、古代都市・府中や鎌倉から関東エリアをつなぐ幹線道路上の政治軍事都市でした。
国分寺の地名は、もともと、奈良時代、聖武天皇によってこの地に国分寺が建立されたことがはじまりです。
武蔵国分寺(むさし・こくぶんじ)とは?
武蔵国分寺は、国分寺市内に残る奈良時代の遺跡。
時の天皇・聖武天皇は、仏の力によって五穀豊穣と安定した社会秩序の実現を目指していました。
その壮大な国家プロジェクトの目玉政策が全国の「国分寺」建立構想です。
この地の国分寺は、とくに「武蔵国分寺」(むさし・こくぶんじ)と呼ばれます。
聖武天皇は、全国60カ所以上に国分寺の建立を命じましたが、その中で、武蔵国分寺は、金堂・講堂・七重塔その他からなる大型伽藍で、隣接して尼寺(にじ)も併設されました。
現代で言えば、官公庁が入る大型複合施設のようなものでしょう。
奈良・東大寺の総国分寺とともにとくに規模が大きかったようです。
( 武蔵国分寺跡・・権力を示す巨大建造物が並んでいたが、今は夢の跡 )
1333年、鎌倉幕府打倒を目指して、上野国(こうずけのくに = 現・群馬県)から南下してきた新田義貞とそれを迎え撃つ幕府軍との戦乱(分倍河原の戦)の中で、武蔵国分寺は炎上・崩落しました。
現在、敷石だけが野原の中で昔の面影を残しています。
武蔵国分寺が、草深い武蔵野に設置された理由
国分寺周辺は、当時うっそうと茂る武蔵野の森に覆われてた森林地帯と思われます。
しかし、国府が置かれた現在の東京都府中市に隣接していたことで、蝦夷(えぞ)勢力に対する防衛上の理由から武蔵国分寺は重要拠点と見なされたようです。
「国府」とは古代のメトロポリス。飛鳥・奈良・平安時代の律令制体制下における政治軍事拠点でした。
現在、日本の政治経済の中心は東京です。
ですが、当時の東京エリアは、人もまばらな海岸湿地帯であり、関東地方の首都機能は、古代においては「国府」、鎌倉時代から江戸時代以前までは「鎌倉」に多くの機能が集中した。
そのため、国府には古代のハイウェイである「東山道武蔵路」(とうさんどう・むさしみち)が走っていました。
この道路が実に興味深い。
鎌倉は、東日本の多くの重要な街道が交差するハブ的存在で、今で言えばアジアとヨーロッパの各都市を集中的にリンクしているヘルシンキ空港のようなポジションだったと思います。
鎌倉を起点とする重要幹線ルートは、「鎌倉街道」と呼ばれました。
・・今日はこれくらいで。次回は、日本のローマ街道、東山道(とうさんどう)を語りましょう。
(5) 武蔵野の湧水(湧き水)
(4) 武蔵野を横断する玉川上水
(3) 古代ハイウエイ東山道武蔵路
(2) 国分寺と武蔵国分寺
(1) 武蔵野を語るシリーズ
(2021-09-03)
( 香水工場の )
香る生活
武蔵野を語るシリーズ
昔は広大な草原だっと言われる武蔵野・・ (2021/08/26)
( 数年前に撮影した晩秋の武蔵野。武蔵野は、秋が一番美しく )
当社は自社のことを小さなローカルブランドと考えています。
ブランド?・・大げさな話でなく、小さな個人商店から大企業さんまでブランドの時代ですから。
ブランドを意識しないと企業は生き残れにくくなりました。
で、ブランドってなんだ?・・という話は大きすぎるテーマなので語れません。
しかし、ひとつ言えることは、ブランドはそのブランドが生まれ土地の文化や価値観を共有していると思うんですね。
その土地への愛着と敬意が、企業文化に反映される。
欧米ブランドの中には、ブランド名に「Paris」とか「London」「New York」「La Provence」などと都市名や地名を付けるところがあるが、同じ理由だと思うんです。
最近わかったことですが、中国の商標局にて「Musashino Works」(英字)や「武蔵野」(漢字)が商標登録されていました。
中国に「Musashino Works」というコトバがあるとは考えにくく、どんな目的で取得されたか不明です。
こんな事件に触れて、武蔵野ってなんだ? がよぎる。
( 冬枯れのケヤキ。武蔵野にはケヤキの大樹が多い、守り神的な雰囲気 )
実は、以前『香る生活』という冊子を発行していました。10年くらい前に『香る生活』で何度か武蔵野を記事にしたので、古い記事を引っ張りだして、武蔵野の物語をリバイバルしようというのがこのシリーズの趣旨。
あまり気合い入れて書くと息切れするので、5~6回でまとめます。
教科書に書いてあるような話に、みなさんが興味あるかどうか、わかりません。
しかし、今も息づいている武蔵野の美しさに触れたいと思う。
(5) 武蔵野の湧水(湧き水)
(4) 武蔵野を横断する玉川上水
(3) 古代ハイウエイ東山道武蔵路
(2) 国分寺と武蔵国分寺
(1) 武蔵野を語るシリーズ
(2021-08-26)
( 数年前に撮影した晩秋の武蔵野。武蔵野は、秋が一番美しく )
なぜ武蔵野は当社の原点?
当社は自社のことを小さなローカルブランドと考えています。
ブランド?・・大げさな話でなく、小さな個人商店から大企業さんまでブランドの時代ですから。
ブランドを意識しないと企業は生き残れにくくなりました。
ボクのブランド論
で、ブランドってなんだ?・・という話は大きすぎるテーマなので語れません。
しかし、ひとつ言えることは、ブランドはそのブランドが生まれ土地の文化や価値観を共有していると思うんですね。
その土地への愛着と敬意が、企業文化に反映される。
欧米ブランドの中には、ブランド名に「Paris」とか「London」「New York」「La Provence」などと都市名や地名を付けるところがあるが、同じ理由だと思うんです。
中国で商標登録された「Musashino Works」「武蔵野」
最近わかったことですが、中国の商標局にて「Musashino Works」(英字)や「武蔵野」(漢字)が商標登録されていました。
中国に「Musashino Works」というコトバがあるとは考えにくく、どんな目的で取得されたか不明です。
だから武蔵野を語ってみたい
こんな事件に触れて、武蔵野ってなんだ? がよぎる。
( 冬枯れのケヤキ。武蔵野にはケヤキの大樹が多い、守り神的な雰囲気 )
実は、以前『香る生活』という冊子を発行していました。10年くらい前に『香る生活』で何度か武蔵野を記事にしたので、古い記事を引っ張りだして、武蔵野の物語をリバイバルしようというのがこのシリーズの趣旨。
あまり気合い入れて書くと息切れするので、5~6回でまとめます。
教科書に書いてあるような話に、みなさんが興味あるかどうか、わかりません。
しかし、今も息づいている武蔵野の美しさに触れたいと思う。
(5) 武蔵野の湧水(湧き水)
(4) 武蔵野を横断する玉川上水
(3) 古代ハイウエイ東山道武蔵路
(2) 国分寺と武蔵国分寺
(1) 武蔵野を語るシリーズ
(2021-08-26)
( 香水工場の )
香る生活
あっという間のウスギモクセイ
満開のその後・・ (2021/08/26)
( 早くも散り始めたウスギモクセイ )
当社の地域に限って言えば、公園の名物ウスギモクセイは、秋の風物詩でなく、晩夏の風物詩になっています。
毎年8月下旬に咲きますので。
8月22日、日曜日に満開を迎え、穏やかな香りで周囲を満たしていた公園のウスギモクセイ。
今日8月26日、木曜日、早くも散りはじめました。
枝を揺さぶると、ボロボロと落ちてくる哀愁がたまりません。
1ヶ月後には、今後はキンモクセイが満開となるでしょう。
( 指で葉っぱをつまみ、揺さぶるとポロポロと、ややヤラセな演出ですが・・ )
(2021-08-26)
( 早くも散り始めたウスギモクセイ )
夏の終わりの風物詩 = ウスギモクセイ
当社の地域に限って言えば、公園の名物ウスギモクセイは、秋の風物詩でなく、晩夏の風物詩になっています。
毎年8月下旬に咲きますので。
8月22日、日曜日に満開を迎え、穏やかな香りで周囲を満たしていた公園のウスギモクセイ。
今日8月26日、木曜日、早くも散りはじめました。
枝を揺さぶると、ボロボロと落ちてくる哀愁がたまりません。
1ヶ月後には、今後はキンモクセイが満開となるでしょう。
( 指で葉っぱをつまみ、揺さぶるとポロポロと、ややヤラセな演出ですが・・ )
(2021-08-26)
( 香水工場の )
香る生活
秋の足音
ナシとウスギモクセイで感じる秋の気配・・ (2021/08/24)
( ナシの季節 )
東京の空は、今日も厚く重い雲におおわれて蒸し暑いですね。
まだ真夏のつもりでいましたが、昨日、取引先から梨が送られてきました。
ナシは秋の果物のイメージ、「もう梨の季節か」と素朴に驚く。
近年は、7月に気温が高い日が続くので、年々、ナシの収穫は前倒しになっているそうです。
そして、今年は、8月に雨が続いたので、晴れた日に一気に収穫とのことで、突然、秋に遭遇です。
( 2021年のウスギモクセイ満開 )
これは一昨日の話ですが、日曜日、公園近くの空き地では東京パラリンピック関連のイベントが開催されていました。
空には戦闘機らしきものも飛来してにぎやかでしたが、公園ではキンモクセイの香りが漂っており静かな時間が流れていました。
「ウスギモクセイが開花しだしたか」と奥へと。
この公園にはウスギモクセイがあり、これが毎年キンモクセイよりも1ヶ月ほど早く開花しています。近寄れば満開でした。
ウスギモクセイは、キンモクセイほど香りは強くありませんが、よく似た香りで、ほぼキンモクセイ。こちらも秋を感じさせる風物詩。
あ、そうそう、スーパーに行けば、案の定、キリンの「秋味」が出ていました。30年以上の歴史、とうとう秋の風物詩的ビールになっています。
(2021-08-24)
( ナシの季節 )
梨は秋の果物のイメージなんですが・・
東京の空は、今日も厚く重い雲におおわれて蒸し暑いですね。
まだ真夏のつもりでいましたが、昨日、取引先から梨が送られてきました。
ナシは秋の果物のイメージ、「もう梨の季節か」と素朴に驚く。
近年は、7月に気温が高い日が続くので、年々、ナシの収穫は前倒しになっているそうです。
そして、今年は、8月に雨が続いたので、晴れた日に一気に収穫とのことで、突然、秋に遭遇です。
( 2021年のウスギモクセイ満開 )
おお、キンモクセイの香りが・・
これは一昨日の話ですが、日曜日、公園近くの空き地では東京パラリンピック関連のイベントが開催されていました。
空には戦闘機らしきものも飛来してにぎやかでしたが、公園ではキンモクセイの香りが漂っており静かな時間が流れていました。
「ウスギモクセイが開花しだしたか」と奥へと。
この公園にはウスギモクセイがあり、これが毎年キンモクセイよりも1ヶ月ほど早く開花しています。近寄れば満開でした。
ウスギモクセイは、キンモクセイほど香りは強くありませんが、よく似た香りで、ほぼキンモクセイ。こちらも秋を感じさせる風物詩。
あ、そうそう、スーパーに行けば、案の定、キリンの「秋味」が出ていました。30年以上の歴史、とうとう秋の風物詩的ビールになっています。
(2021-08-24)
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